左に右折

小説書きリハビリ用

不可侵領域(前編)

 誰にも邪魔をされることなく、誰の目にも晒されず、暴かれず、そっと宝物を包み込むように、私はただただ私でありたいと考えている。それはきっとクローゼットの中にしまい込む本当の自分自身であったり、SNSで貼り付けた私のペルソナ武装だったり、日常的な会話の端々だったり、とにかく私は私を守ることに必死なのである。

 それは例え親であっても、兄弟や親友であっても言えないことで、それをくちにだした途端に私という人間は人魚姫のように泡になって消えてしまうのだと思う。

 嘘を吐くことは慣れてしまった。本音を飲み込むことはいつからか自然とできるようになった。演技をすることでそっちの自分が本当でこっちの自分こそが偽物なんだと思い込むことで、まるで自分のことを否定するかのように、守りながら貶して生きている。

 

「平元さん」

 

 仕事は楽だった。業務内容に関係なく、何かしている間は考え事をしなくて済むからだ。仕事は私にとってのドーピングで、依存じみて没頭できて、それでいて達成感と報酬がもたらされるというだけで他の何よりも私の心を救ってくれていると思う。

 ワーカホリックだ、と言われたことは片手では数えきれなくなりつつあった。いつも身体のことを心配してくれる両親は、だけど私の心がすり減っていることには気づきもしないようだった。うまく騙せているだけではなくて、私の張った予防線を両親も解った上で踏み込めずにいるのだと、ただそれだけのことだと思う。

 

「平元さん、コピー機、止まってますけど。まだお使いになりますか?」

 

 肩を叩かれてはっとした。尋ねられた言葉を脳内で瞬時に処理して、私はとっくに印刷が終わっているコピー機の前にぼーっと立っていることに気がついた。

 午後の会議に使う書類一式は、ペーパレス化が叫ばれる昨今には相応しくない量の冊子綴じで印刷されていて、しかも重要書類ときたからコピー機の前から離れるわけにもいかなかったのだった。

 

「ありがとう、井上さん。少しぼーっとしてたわ」

「珍しいですね。お疲れなんじゃないですか?」

 

 恐らく印刷待ちだったのであろう彼女は、私がコピー機の前から退いてあげると手慣れた様子でタッチパネルを操作する。私の顔も見ずにA3の書類印刷を操作する彼女の声のトーンに威圧感は微塵もない。かと言って気遣うような感じでもなく、ただ事実を確認するようなくちぶりだった。

 

「ちょっと考え事しててね。ごめんなさい」

「いえ、私は特に。心ここにあらず、という表情の平元さんを見るのはなかなかにレアだったので、」

 

 言葉を半端に止めて、彼女は印刷が終了したコピー機から書類を取り、私の顔をふと見つめた。彼女と目を合わせて会話するのは、初めてかもしれない。こんな造形の顔をしているのか、とぼんやり思った。

 

「ので?」

 

 続きを促すと、書類を半分に丸めてから、彼女は軽くため息を吐いたように見えた。

 

「少し気になりまして」

「なるほど。私も結構抜けたところはあるのよ。人間だからね」

「……抜けているというよりは、いや、なんでもないです」

「……言いかけてやめられると気になるんだけど」

 

 そっと目を逸らして、私は密かにため息を吐き出した。仕事中に余計なことを考えてしまうのは、今のように何も手が動かない時だった。機械による自動化や効率化が格段に進んでいる現代では、人がかける手間が省かれた代わりに、ただ空白の時間だけが残されることが多々あって少しだけ苦しいと感じているのは、おそらく私くらいだとは思う。

 

「平元さん、ワインと日本酒だったらどちらがお好きですか?」

 

 いきなり話題が変わって、なんだなんだ、と思いつつ、単純な二択問題に答えない理由も浮かばなかったので私は後者を答える。元より酒は強くはない方だ。飲むとすぐに顔に出る。仮面が剥がれる。だから正直なところ、あまり飲むのは好きではない。

 

「では、今夜一緒にいかがですか」

「え、今日?」

「はい。もちろんご予定がなければ、ですけど」

「あなたと?」

「あ、嫌なら正直に言ってください」

 

 これは、気を遣ってくれているのだろうか?

 断る理由をすぐに3つほど思い浮かべたけれど、表情が変わらないと噂の井上さんの顔を見ながら私はいずれの案も棄却した。

 

「わかった。定時で終わらせて行きましょう。美味しくなかったら帰るから」

「りょーかいです」

 

 ホッとした雰囲気が伝わってきて、私も胸をなでおろした。どうやら返答は正解だったようだ。

 しかし、目下としてひとつ重大な問題が私にはあった。

 彼女が立ち去った後のコピー機の電源を節電モードに切り替えながらまたひとつため息を吐く。

 

 私は、彼女に恋愛的な好意を寄せている。

 それが、ただひとつ私が彼女に対して抱えている重大な問題だった。